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2012年12月

2012年12月25日 (火)

社会はいじめで出来ている2

大変お久しぶりです。

デモ情報の収集・拡散がとにかく忙しく、とてつもなく間が空いてしまいましたが、前回さらっと流したある一部分について掘り下げます。元々続く予定だったのですが心の余裕がなく、遅れてしまいました。もしよかったら一つ前の記事から読み直していただけるとありがたいです。

さて、前回の記事の中にこのような記述をしました。

「いじめる人の中には、いじめられた経験を持ち、その苦しみを知っている者も多いのです。再びいじめられることを回避するには、いじめる側に立つのが有効だからではないかと思います」

いじめられる苦しみを知っていたらいじめることなんて出来ない、と言う人がよくいます。しかし、実際の割合はわかりませんが、かつていじめられていた人が今度はいじめる側に立つ、というのはよくよく聞く話です。

なので、よくいじめに遭う人が、「私はいじめられっこでした」と言う人に出会ったら、気持ちがわかってもらえると思って安易に心を許してはいけません。逆に、この人は自分をいじめるかもしれない、と思っていた方が無難です。非常に残念な話ですが、僕は実体験として何度もそういう目に遭っています。

ここまで読んで、「そんなにいじめられるのは、お前に原因があるんだろ!」と突っ込んだ人はおられますか?
まあそうかもしれません。

でも、いじめは絶対悪です。
たとえ僕の行動に腹を立てても、いじめてはいけません。
なぜなら、いじめというのは、卑劣な行為そのものを表す言葉で、喧嘩とか言い争いなどとは違うのです。どんな理由があっても正当化されることは絶対にありません。

では、なぜいじめの苦しみを知っている人がいじめる側に立つのか。

これが、いじめをなくすことの難しさの一因でもあります。

いじめられるということは本当に辛いもので、それを経験してしまった人は、なんとかまたそこに戻されないよう必死になります。では、いったいどうすればいいのでしょう。

前回書いたように、いじめの成立には、標的と首謀者の他に、同調する人が必要不可欠。そして、傍観者によって完成するのです。発生してしまったら、それは標的の努力によって回避するのは大変困難です。そして、傍観する人の中には、"関わると自分が標的にされる"という恐怖心からなる人もいて、それは本当にそうなる可能性を秘めているのです。
では、他人と関わらざるを得ない環境にあって、いじめの標的になることを回避するために最も有効な手段は何でしょう。

首謀者か同調者、すなわち"いじめる側に立つ"ことなのです。

人をいじめている間はほぼ安全と言えます。いじめられることの苦しみを思えば、自分がその環境に落とされないために、いじめる側に立てば安全という誘惑に勝てないことも、また理解できます。それは、案外簡単に陥ってしまうものです。

いじめられる苦しみを知っていて、自分はいじめる側には絶対立たないぞ、と思うなら、それは強い意志を持って誘惑と戦う、そしてうっかりそこに流されないように自分の行動を常に振り返る努力が必要なのです。
しかしそれは、自分がいじめる側に立たないことにしか役に立たず、いじめられる危険性は少しも減りません。自分の身の安全のためには、全く役に立たない行動なのです。

この状況で、いじめの苦しさを知っているなら他人をいじめないだろう、という論理は成立しません。

いじめられっこが人をいじめることがよくある理由がわかってもらえましたでしょうか。

そして、タイトルに書いたように、社会はいじめで出来ていると僕は思います。
学校や職場などで起こるわかりやすいいじめの他に、会ったこともない権力者が自らの得を保つために多くの他人を犠牲にし、日常生活を送る中でも他人の危機回避による無意識のいじめによく遭遇しているのです。いじめられ、そしていじめているのです。

自分が酷い目に遭うことを回避するために、代わりに誰かを酷い目に遭わせていないか、ということを常に振り返る努力が必要です。完璧に把握するのはとても困難ですが、意識して振り返る、想像することが大切だと僕は思います。

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